漫才は、ランジャタイ以前とランジャタイ以降に分かれるか・・・!?

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こんにちは、今回は趣向を変えて漫才のお話し。一般人が漫才について言及すると、途端に似非評論家っぽくなってしまうことを承知の上で。

今日、新宿バティオスにて開催された「バティオスネタ祭り」というライブを観てきました。お目当ては最近話題になっていると聞くランジャタイ。どんな漫才を見せてくれるのか楽しみにして行ってきました。生で見てきた人から凄い、凄いと聞いていたので、これは是非とも生でライブを見てみたいとの思いからです。

率直な感想をいきなり書いてしまうと、かなりの衝撃を受けました。漫才とは何なのか、漫才の今後とは、漫才の在り方について、漫才という表現形式について考えさせられてしまうような衝撃でした。とにかくぶっ飛んでる、ランジャタイ。既存の漫才の概念を突き抜ける、カテゴライズが出来ない破天荒さ。

どのような漫才だったかは詳述を控えますが、上のことを深く考えさせられました。少し前の漫才って大体、「俺、プロ野球選手のヒーローインタビューにあこがれてるんねん、ちょっとやってみていい? 俺、ホームラン打った選手やるから、お前インタビュアーやってえや」といううような形で、コントのような形に持ち込む漫才が主流だったように思うのですが、最近はそういうのはやらないですよね。自動ドアが開く様子を「うぃーん」ってやるシーンとかも、もう誰もやってない感ありますし、寧ろそういう形をメタ化している様子すらあるように思います。あるとしたらもうそうゆう形は古いことをわかっていても、敢えて確信犯的に持っていく。

一人のお笑い好きを長くやってきた身として、漫才は今後、数十年というスパンでみてどのような形になっていくのかは以前からの関心事でした。三河万歳の系譜から、横山エンタツ・花菱アチャコへと連なり、横山やすし・西川清へと、それからMANZAIブームを経て、今日では大衆園芸の代表的存在となっている漫才。でも、もしかしたら今後は能楽や狂言、歌舞伎のような形で伝統芸能化するのではないかという思いも正直あります。三代目オール阪神・巨人みたいに襲名制になったりして。少なくとも落語はそうなりつつあるように思います。これは空想なのではなく、本当にそうなるんだろうなという気がここまで書いてきて、それは現実的なことだなとなんだか思えてきました。

閑話休題、ランジャタイについてです。タイトルに付けた通りのことが起きるのではないか、ということをランジャタイの漫才を観て考えてしまいました。この言い回しはM-1で審査員紹介の際に松本人志についての紹介をもじったものです、勘のいい方はお察しだとは思いますが。

ランジャタイは漫才の在り方、またそれまでのスタイルを一新するだけのポテンシャルを秘めているかもしれないと思います。俗に言う「作りこんで緻密に計算された笑い」とは対極に位置するような漫才だと感じたのですが、その漫才の既存の構成、フォーマットを破壊して、そして突き抜けるだけのものを持っていると感じました。

今の漫才はコント漫才がかつてのオーソドックスな形式ではなくなり、でもその次の在り方がみんながわからなくて必死で探っているという状況に見受けられます。例えば、普通に面白い漫才、またはコントだけではなくそこから一捻り、またもう一つ捻っているなというネタを昨年のM-1から見るようになったなと思います。でもランジャタイは既存のものから捻るという程度ではなくて、それを壊す、くらいの感じだと感じました。シュールとか、○○系だとかそれらの言い回しが全く彼らの漫才に当てはまらないような気がして、でも凄く面白いっていう、今まで感じたことのないような不思議な感覚。もしかしたらランジャタイは、漫才そのものの歴史に風穴を開ける、もしくは漫才が伝統芸能化するとしても、その時期を先送りさせるだけのことをやってくれるくらいの逸材なのかもしれません。そう感じました。漫才のもっと深い構造的なところを建設的に破壊していく力をランジャタイの漫才から感じました。

というわけで、ランジャタイの今後に期待します。もしかしたらランジャタイの漫才をM-1で見ることが出来るのは、今年ではなくてもう少し先になるのかもしれないと思う部分もありますが、優勝よりも価値の大きい、凄い凄い爪痕を、M-1だけではなく漫才というもの自体に対して残せるのではないかという予感があります。

ランジャタイの今後に、目が離せません。