図書館で働いてきて感じたこと、または働いていて感じること

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久しぶりの投稿になります。今回はタイトルの通り、今まで自分が図書館で働いてきて感じたこと、そして今現在も図書館で働いていて感じていること、そして心掛けていることについて書いてみたいと思います。

まずは図書館で働き始めてからの来歴を振り返ってみる

図書館で働き始めたのが約4年前、司書の資格を取得するため司書講習に通っていたのが3年前です。それまで長らく学生生活が続いていたこと、また司書資格も持っていなかったこと、自分自身ろくに就職したことがないこと、また図書館業界は雇用の面で非常に厳しいと聞いていたこと、以上の理由から最初は半ば「下積み」の意識もありました。

最初の図書館では業務委託のアルバイト。カウンターと配架業務、そして回送されてきた資料の処理が日々の業務でした。そこで約1年働いたのち、司書資格取得を機に指定管理の図書館で契約社員として約4か月働きました。それからその図書館を辞め、書店のバイトなどを経つつ、今の組織で働き始めたのが約2年になり今現在に至ります。今の職場では、最初の図書館で働いていた時期に比べれば、ずっと大きな裁量と自身のスキルアップの機会をもらえていると実感しています。

ただ今のところに来るまでの道程を考えてみると、決して安定はしていません。しかし浮き沈みはありながらも、少しずつでも成長を実感できています。それなりに大きな失敗もしたので、その失敗を乗り越えるべく努力もしているつもりです。また逆に自分が成長できた/できているという実感もあります。

そんな日々の中、まだまだ先を見据えて悪戦苦闘の日々が続いています。

図書館で働いてきて感じたこと

 ここからが本題に入ります。「図書館で働いてきた」といっても、様々な立場があります。来歴を読んでいただければわかると思いますが、自分はずっと非正規雇用で働いてきました。そんな中で感じたことを書いていこうと思います。自分の経験が少しでも現場にフィードバックされ、図書館で働く志ある人々の参考になればと思います。

手段と目的について

仕事には「目的」があります。そして、その目的を達成するために「手段」があります。両者が入れ替っている。または「手段」が「目的」を失ったまま、「手段」をこなすことそのものが「目的」になってしまっている、そう思わされたことが多くありました。

新聞の装備について具体例を挙げてみましょう。図書館では一般的に新聞を利用者の閲覧に供する際に、バラバラにならないようにホチキスで留める、そのホチキスで利用者が怪我をしないためにセロテープをホチキスで留めた上に貼る、また図書館の所蔵の資料であることを示すために所蔵印を押す等の作業を行っています。新聞の装備にも一つ一つの作業でも「目的」があるのです。

しかし今まで勤務していた図書館では、その「目的」を忘れてしまって、本来は「手段」である作業を確実に遂行すること自体が目的化するというケースを往々にして見てきました。

新聞の装備のケース当てはめて言えば、本来の利用者の閲覧に際するという「目的」を見失ったまま、所蔵印を押し忘れないこと、ホチキスをきちんと綴じること、それらを確実に遂行すること自体が、目的化されてしまう、といった感じでしょうか。要は、本来の「目的」を意識することなく、いかにミスをしないかということ自体が「目的」になってしまっている。99%を99.5%に高めることが目的となってしまっているように感じました。

これは新聞装備に限らったことではありません。本をブックトラックに載せる時の方向、用紙に記入する際は何色のボールペンを使うか、などといったことで注意されたことが多々あります。そういう時に感じたのは、「目的」に対して「手段」が肥大化している、または「目的」自体が忘れられてしまっている、または非常に軽いものになりつつある、ということでした。

常に「目的」を意識してほしいというのが自分の思いです。日々のルーティンワークの中で、時に「目的」を忘れてしまうことがあるかもしれません。自分自身にも自戒を込めて書いているのですが、たとえ小さなで細かい作業でも、その「目的」を忘れないようにしてほしいのです。

大きな視点でものを見るということ、全体像をみるということ

自分がアルバイトの頃に感じていたもどかしさとして、今自分が働いている図書館の全体像が見えないということがありました。

自分はその図書館の末端のようなところにいたので、情報が入って来ないのは仕方がない部分もあったのだと思います。しかし、運営形態や図書館の全体像が見えないことに対して、強いもどかしさと不安がありました。もちろん、図書館の運営について知識が欠如していたことも否めません。そこで、司書講習の応募動機に、「今自分がアルバイトながらも図書館に勤務していて、今後も図書館に携わっていく上でまずは自分が図書館について何を知っていてまた何を知らないのかを、知りたいから」と書きました。司書資格を取得する過程の中で、その一端は知ることが出来たと思います。

しかし、もっと大きな視点から見てみるということは、まだまだ自分自身の今後の課題でもあります。運営母体はどうなっているのか。また地域社会や社会全体の中での図書館の立ち位置。そして業界の中での自分自身の立ち位置を考えてみること。それらはとても大切なことであると思います。先に書いた「手段」と「目的」についても関わってくるかもしれません。大きな視野から見た図を前にすれば、自らの「目的」が自然と見えてくると思うからです。

このことは今の自分にとって大きな課題であると書いていて再認識が出来ました。大きな視野で書かれた図を手にするために「時には図書館の枠組からも外に出て相対的な視点で見てみる」ことを、それを積極的に行っていきたいと思います。

必要なスキルとは

司書は専門職なのでしょうか?

その問いには賛否両論があるかもしれません。しかし、司書は専門職であっても専門職でなくても、対価を貰って働いているからには一人の社会人です。そのことを鑑みた時に、どんなスキルが必要なのか自分の経験を踏まえつつ書いてみたいと思います。

自分の場合で考えた時に、必要なものはパソコンスキルと仕事をする上での基本的な常識でした。前者で言えばExcelの使い方やショートカットキーの使い方を身に付けて作業効率を高めること。後者の場合は、報告書の基本的な書き方、またPDCAサイクルやいわゆる「ホウレンソウ」といった働く上で基礎的な考え方を習得することでした。自分の場合、働く上でのそういった基礎的な部分が非常に脆弱でした。

司書講習のグループワークで、グループのメンバー全員がパワーポイントを使ったことがなかったことがあり、その衝撃が忘れられません。司書は専門職か否か、という議論はあるにしても、働くということについての基礎的なスキルは身に付けるべきだし、またリカレントしていくべきだと痛感しています。もちろんパソコンスキルはあるに越したことはないと思っています。

 

終わりに

随分と長くなってしまいました、毎度のことしれませんが。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。いま思っていることを、出来る限り整理しつつ吐き出してみた、という感じです。

図書館で働きたいという人はたくさんいらっしゃると思うのですが、どこでどう働きたいのかということを考えてほしいと個人的には思います。あとは先にも書いたように「目的」を見失わないで欲しいとも強く思います。

この投稿には多分に自戒を込めています。自らを鼓舞するきっかけとともに、多くの図書館で働く人たちの参考になってくれれば本望です。

 

海老名市立中央図書館に行ってきました

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久々のポストになります、10か月ぶりくらいの更新ですね。

標題の通り海老名市立中央図書館に行って来ました、そのレポートです。


海老名市立中央図書館、いわゆる「TSUTAYA図書館」として有名ですね。

批判も多い図書館だということも承知してますが、一利用者として見た時に意外とこれはこれで「あり」だと思った面もあるのが正直なところです。市民のニーズを反映させたらこういう選択肢もあるのではないかと。市民のニーズとは、スターバックスコーヒー、お洒落で居心地の良い空間です。

海老名は一応は首都圏かと思いますが、一方で地方になるとスターバックスなんて結構なブランド力を持っていたりする。またTSUTAYAのノウハウを活かした都会的な空間作りも大きな魅力を持ち得ると思います。武雄や多賀城なんてその傾向が強いのではないかなと想像しています。

また、書店と図書館の機能を併せ持っている点も特徴的です。これも個人的に一利用者としたら悪くないのではないかと思いました。書店と図書館、併設されてて便利みたいな感じで(本もわりかし買う方なので)。

一方で郷土資料は、規模の割に収集やアクセサビリティが弱いかもと思いました。図書館を訪れた際、郷土資料を見る基準としてWikipedia townを開催した時をイメージしてみるのですが、ちょっと頼りない印象でした。

またTSUTAYA図書館といえばダミー書架のことをよく言われますが、やはりありました。高層書架に「DICTIONARY」と書かれた背表紙の本が並んでいて、2階か3階で手に取ってみるとなんと本ですらなくカバーだけでした・・・。こういうところが叩かれる原因の一つなんでしょうね。

図書館法第二条において、図書館は「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設」と定義されているのですが、その定義や、また旧来的な図書館像から大きく逸脱しているところに反発を招いている原因でしょうか。

しかし、市民のニーズがそうさせてしまったのならそれはそれである意味仕方がなくて、外野がわいわい言うのもどうかと思います。東京に住んでいたらスターバックスコーヒーなんてあって当然ですが、地方に行くと凄いブランド力を持ってように感じていますし(ここは強調してます)、地域には地域のニーズがあります。

付け加えておくと、私は地方の人口5万人程度の市の出身です。何が言いたいというと、武雄市と同じ規模で、同じような田舎出身だということです。だからこそ、蔦屋書店のセンスやスターバックスコーヒーが地方でどのように受容されているか肌感覚でわかる気がしています。

冒頭で一利用者として見た時に意外とこれはこれで「あり」だと思った書きましたが、一つの選択肢として市民がそれを望んだのであれば、こういう形もあるのではということです。

追記:海老名市立中央図書館のオリジナルトートバッグを購入しました。大容量で、お洒落です。

漫才は、ランジャタイ以前とランジャタイ以降に分かれるか・・・!?

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こんにちは、今回は趣向を変えて漫才のお話し。一般人が漫才について言及すると、途端に似非評論家っぽくなってしまうことを承知の上で。

今日、新宿バティオスにて開催された「バティオスネタ祭り」というライブを観てきました。お目当ては最近話題になっていると聞くランジャタイ。どんな漫才を見せてくれるのか楽しみにして行ってきました。生で見てきた人から凄い、凄いと聞いていたので、これは是非とも生でライブを見てみたいとの思いからです。

率直な感想をいきなり書いてしまうと、かなりの衝撃を受けました。漫才とは何なのか、漫才の今後とは、漫才の在り方について、漫才という表現形式について考えさせられてしまうような衝撃でした。とにかくぶっ飛んでる、ランジャタイ。既存の漫才の概念を突き抜ける、カテゴライズが出来ない破天荒さ。

どのような漫才だったかは詳述を控えますが、上のことを深く考えさせられました。少し前の漫才って大体、「俺、プロ野球選手のヒーローインタビューにあこがれてるんねん、ちょっとやってみていい? 俺、ホームラン打った選手やるから、お前インタビュアーやってえや」といううような形で、コントのような形に持ち込む漫才が主流だったように思うのですが、最近はそういうのはやらないですよね。自動ドアが開く様子を「うぃーん」ってやるシーンとかも、もう誰もやってない感ありますし、寧ろそういう形をメタ化している様子すらあるように思います。あるとしたらもうそうゆう形は古いことをわかっていても、敢えて確信犯的に持っていく。

一人のお笑い好きを長くやってきた身として、漫才は今後、数十年というスパンでみてどのような形になっていくのかは以前からの関心事でした。三河万歳の系譜から、横山エンタツ・花菱アチャコへと連なり、横山やすし・西川清へと、それからMANZAIブームを経て、今日では大衆園芸の代表的存在となっている漫才。でも、もしかしたら今後は能楽や狂言、歌舞伎のような形で伝統芸能化するのではないかという思いも正直あります。三代目オール阪神・巨人みたいに襲名制になったりして。少なくとも落語はそうなりつつあるように思います。これは空想なのではなく、本当にそうなるんだろうなという気がここまで書いてきて、それは現実的なことだなとなんだか思えてきました。

閑話休題、ランジャタイについてです。タイトルに付けた通りのことが起きるのではないか、ということをランジャタイの漫才を観て考えてしまいました。この言い回しはM-1で審査員紹介の際に松本人志についての紹介をもじったものです、勘のいい方はお察しだとは思いますが。

ランジャタイは漫才の在り方、またそれまでのスタイルを一新するだけのポテンシャルを秘めているかもしれないと思います。俗に言う「作りこんで緻密に計算された笑い」とは対極に位置するような漫才だと感じたのですが、その漫才の既存の構成、フォーマットを破壊して、そして突き抜けるだけのものを持っていると感じました。

今の漫才はコント漫才がかつてのオーソドックスな形式ではなくなり、でもその次の在り方がみんながわからなくて必死で探っているという状況に見受けられます。例えば、普通に面白い漫才、またはコントだけではなくそこから一捻り、またもう一つ捻っているなというネタを昨年のM-1から見るようになったなと思います。でもランジャタイは既存のものから捻るという程度ではなくて、それを壊す、くらいの感じだと感じました。シュールとか、○○系だとかそれらの言い回しが全く彼らの漫才に当てはまらないような気がして、でも凄く面白いっていう、今まで感じたことのないような不思議な感覚。もしかしたらランジャタイは、漫才そのものの歴史に風穴を開ける、もしくは漫才が伝統芸能化するとしても、その時期を先送りさせるだけのことをやってくれるくらいの逸材なのかもしれません。そう感じました。漫才のもっと深い構造的なところを建設的に破壊していく力をランジャタイの漫才から感じました。

というわけで、ランジャタイの今後に期待します。もしかしたらランジャタイの漫才をM-1で見ることが出来るのは、今年ではなくてもう少し先になるのかもしれないと思う部分もありますが、優勝よりも価値の大きい、凄い凄い爪痕を、M-1だけではなく漫才というもの自体に対して残せるのではないかという予感があります。

ランジャタイの今後に、目が離せません。

本を贈るって、意外と難しい!?

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前回の投稿よりだいぶん日にちが開いてしまいました、今回のエントリーは4月19日(水)の内沼晋太郎さんトークイベント、「本を贈ることについて語るときにぼくの語ること」に参加してきたので、そのレポートを行いたいと思います。場所は日比谷図書文化会館です。

 

先日、日比谷図書文化会館に立ち寄った際、たまたまチラシを目にして知った今回のトークイベント、参加してきました。人が人に本を贈る、またはすすめる際にバイアスがかかるのではないか、そしてそのバイアスとどう付き合っていけばよいのか、という問題意識を抱えていた自分にとって、何かヒントのようなものが得られるのではないかと思って申し込んだ次第です。ちなみに今回のトークイベントは4月23日の「サン・ジョルディの日」に合わせたテーマだったようです。

 

内沼晋太郎さんは、店内でビールが飲めて、毎日イベントを行っている、下北沢の本屋B&Bの共同経営者として有名かと思います。ちなみにチラシの肩書は「numabooks代表、ブック・コーディネーター、クリエイティブ・ディレクター」。以前に読んだ内沼さんの著書、『本の逆襲』(朝日出版社・2013年12月)では、内沼さんの様々な本にまつわる活動が書かれていて、とても面白いなあと思ったことを記憶しています。

 

会場は日比谷図書文化会館、定員60名のところほぼ満席といったところでしょうか、なんとなくですが出版社系の方々が多くいらっしゃっていたような印象を受けました。席には日比谷図書文化会館のイベント案内と、本日のレジェメ。レジェメには「1つの引用」と題して、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」の一節の引用がありました。その引用は、今回のトークイベントの肝とリンクする一節になります。

 

トークイベントの前半は、内沼さんの今までから現在までの活動の紹介でした。文庫本を紙で包んでその一節だけわかるようにしておく(葉書としても出せる)「文庫本葉書」や、書き込みができる書店の「WRITE ON BOOKS」といった取り組みの紹介、そして本屋B&Bを立ち上げるまでの経緯、本屋B&Bの特徴などをお話しいただきました。

 

そしていよいよ後半部、「本を贈る」ことについてのお話です。内沼さんは、本は人を傷つけることがある、本は相手の時間を奪う、かといって誰も傷つけず時間も取らない本はほとんどつまらない、絶対にぴったりだと思う本は読んだことがある可能性が高い、という4つの理由を挙げて、本を贈ることは一つの暴力のようなものではないか、というようなことをお話しされました。個人的にも、確かにそうかもしれない、と思うところがありました。本をすすめるというのは、ある意味ですごく傲慢なことではないのかと考えていた自分にとって、「本を贈る」という行為になってしまったらそれはもう暴力のようなものではないかと。

 

またその上で、「本を贈るときの最低限のマナー台詞」としてのお話もありました。「あなたに合うかはわからない」、「もし持っていたら誰かにあげてください」、「読まなくていいし、感想は言わなくいいから」という3つです。確かにこの3つの言葉が添えられていれば、本を贈られた(すすめられた)ときに、随分と心理的に楽になるなあと思いました。

 

そして本を贈る際のテクニックとして、「本を贈り物の『従』とする」、「一度に読み切れないくらいたくさん贈る」、「相手の本棚を見て話をする機会を作る」の3つをご紹介されました。

 

そして、結論として「本を贈ることは難しい」、そして補足のような形で「しかし当たれば素晴らしいと」。

 

確かに内沼さんのおっしゃる通り、本を贈るという行為は凄く難しいことではないかと改めて考えさせられました。それは、本は一つの価値であり、またその価値を巡って読者の一人一人が違う価値を見出す、という個人的に以前から思っていたことと突き合わせると。それを贈り物という形にするのはまさにある意味で価値観の押し付けであり、また暴力のようなものだと痛感させられました。世の中には本当にたくさんの本が存在しますが、その中でどの本を選ぶのかはその人の自由です。しかし「本を贈る」ということになると読者にとって選ぶという余地がなくなってしまします。また先述したように本は時間を奪います。

 

とここまで書いてみて、なんだか少し悲観的な内容になってしまいましたが、質疑応答で明るい話題が出たので紹介したいと思います。それは本を贈る人が魅力的で素敵な人だったら、というものです。確かに本が人を介したとき、介した人が魅力的で素敵な人であれば、本の意味合いも変わってくるのではなかと思いました。

 

また自分からも一つ質問をさせていただきました。それは「本を選んで贈ったりすすめたりする際にはバイアスが生じると思うのですが、そのバイアスと上手く付き合いにはどうすればいいのか」という主旨の質問でした。その問いについて内沼さんに、「書評やPOP自体を面白く、周辺を楽しくする」という内容の答えをいただきました。「バイアスが掛かることを楽しむ」というように理解しました。バイアスをネガティブに捉えるのではなく、ある意味で開き直ってポジティブに楽しむ、ということでしょうか。そう考えると本を贈ったりすすめる際に様々なアイディアや工夫を施すことを心掛けることが楽しめるように思いました。

 

今回のトークイベントに参加してみて、本を贈ることの難しさを改めて、痛感しました。また本を贈る、すすめる際にはマナーなども必要になってくるなとも。気軽に考えていたことが、実はこんなにナイーブに考えなければいけないということが驚きでもありました。

配布レジェメにあったレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」の一節の引用ですが、ここまでこのエントリーをお読みいただければ、「愛について語るときに我々の語ること」を実際にご一読されれば引用の該当箇所はおわかりになるだろうと思います。ずるい、と言われるかもしれませんが、短編小説ということなのでぜひ読んでいただければと。自分もこれから読みます。

 

内沼さん、日比谷図書文化会館の方々、貴重なお話し、機会を本当にありがとうございました。

 

 

 

課題解決を謳うなら、レフェラルサービスでは?

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新年あけましておめでとうございます。なんだかんだで昨年は職場を4つ経験しましたつじです。

何故に職場を4つも渡り歩いたかというと・・・、そんな事をこんなオープンな場所で書けるわけないではないですか(笑) 今いる場所で場所で出来るだけのことをやりつつ、自分が思うサービス、図書館像を具現化すべく努めていきたいと思います。

最近は公私ともに忙しいこともあり、図書館について自分の中の根本的な理想像(たとえそれが漠然としていても)が曖昧になってしまっているなと痛感しています。それもあってのこのエントリーです。とりあえず一つ前々から思っていたこと、考えたことを書き散らしますので、至らない所があっても諸々ご容赦いただき、温かい心で読んでいただけると幸いです。

「課題解決」と図書館について

 「課題解決型」の図書館などと、昨今よく目にするフレーズですが、自分には今一つピンときていません。2014年の夏の司書講習で、「図書館員は医療相談・法律相談・人生相談」に乗ってはいけないと教わりました(「なぜですか? 法的根拠は「あるのですか?」と教員に質問しましたが、曖昧に濁されました・・・、いつか調べねば、自力レファレンスだ・・・)。そんな無力な図書館員が利用者の課題なんて解決できるのか。資料だって健康情報の49の棚に行くと、医療情報の本の中にも怪しいものもたくさんあるし、3類の法律書を図書館員は読みこなせるか、また人生相談に乗ってはいけないのであるならば、鎌倉市図書館の話題になった「死にたくなったら図書館においで」という旨のツイートはグレーなのではないかと悶々としています。つまりは図書館に課題解決なんて現状で出来るのかよっ! という突っ込みですね。でもでも突っ込んでいるばかりではありませんよ、課題解決というならば、もっとレフェラルサービス(他機関紹介サービス)に力を入れるべきではないかと考えています。法律情報や医療情報や人生相談に関する相談を受けてはいけないのなら、例えば法テラスや地域の医療機関等につなぐ(これも最近の図書館のキーワードでしょうか)ことによって、より課題解決に近づくのではないかと考えています。そのためには図書館の外に出ていくこと、異業種の世界へとつながりを作っていくことが必須要件となりますね。

と、こんなことを思ったのも実はビックイシュー基金で働いていらっしゃる方のお話を聴く機会があったからなんです。ビックイシュー基金さんでは、「路上脱出ガイド」という小冊子を作成されて、様々な場所で配布されているとのこと。その冊子は、路上生活者がそこから脱出するにあたっての方法や支援してくれる機関などをまとめたものです。公共図書館と路上生活者、よくトラブルになりがちだと聞く事案ですが、図書館が路上生活者にビックイシュー基金さんを紹介(レフェラル)することはまさに課題解決じゃないかと思った次第です。

「課題解決」という言葉が声高に叫ばれるようになったのは、菅谷明子さんの『未来をつくる図書館』(岩波新書)の影響があったのかなと推測していますが、どうなんでしょうか・・・。『市民の図書館』、それ以降に明確な指針を打ち出せていなかった日本の図書館会(とりわけ公共図書館)にとって、ニューヨーク公共図書館の展開しているサービスは新たな目指すべき指針に見えた、というのは私の推測でしょうか・・・? もう一度書きますが、「課題解決」というならレフェラルサービスに力を入れるべきではないでしょうか?

 

何な偉そうなことを書いてしまいました。では実際に自分がどう動いていくのか、それはまた次回にでも書きたいと思います。明日は仕事始めなもので、今日はこれくらいにしておきます。

図書館の名刺と、少しのもやもや

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図書館員は名刺を持つべきだ! という主張を発信されている方々をSNSやブログなどでお見かけするここしばらくですが、結論から言えば私も個人名刺でもよいから名刺を持つべきだと思います。今は職場の方で名刺を作ってもらえる立場となり、これは大変に喜ばしいことなのですが、それとは別に個人名刺も作ろうかと考えています。本当ならもっと早く、今の職場に名刺を作ってもらう以前に、個人名刺を作っておくべきだったとつくづく感じています。昨夏の司書講習で司書の資格を無事に取得し、それで堂々と「司書」という文言を載せることが出来たのだから、もっと早くに作るべきでしたね。そこで作らなかったのは自分自身の怠惰でした(また名刺作るだけのお金もなかったという事情もありますが・・・)。

ではなぜ個人名刺を作るのか・・・、それはある組織に所属している自分とは別に、一人の図書館員としての存在意義を名刺によって示したいから、というのがまず一つ目の理由。もう一つは、SNSやメールアドレスなどの連絡先を相手に手渡すという実用的な意味が二つ目の理由(今の職場で作ってもらっている名刺はプライベートな情報は載っていないので)。

一つ目の理由は、自分自身のブランディングという側面もあります。世知辛い話をすれば、この図書館を取り巻く厳しい雇用状況の中で一つの職場・組織に勤め上げるのはなかなかないこと。組織が変わっても、自身が図書館に携わる者としてのアイデンディファイが出来る信念のようなものが必要かと思います。それを具現化したものが個人名刺なのではないかと思うのです。その信念のようなものを様々な人たちに手渡すことになるのですから、これは自分自身のPR・ブランディングになるのではないかと考えます。

二つ目の理由については、本当に言わずもがなです。名刺交換の後に連絡を取り合う手段を残しておくという至極に実用的なことですね。以前にこのブログでも紹介した、鎌倉幸子さんが書かれた『走れ! 移動図書館~本でよりそう復興支援~』(ちくまプリマー新書)に、「記録されないものは記憶されない」という一文がありますが、名刺についても言えることだと思います。

さて、いざ個人名刺を作るとなってデザインなどいろいろと考えることがあって悩みます。紙は、書体は、イラストとか入れるの、とか考えるときりがないですね。実用的な面では、SNS(主にFacebook)の連絡先は載せるとして、それに個人のメールアドレスでしょうか。あとは何か自分を表現するキャッチコピーのような肩書きが欲しいです(笑)

個人名刺については詰めていきたいので、作ったらまたこのブログで報告したいと思います!

また、名刺について印象的というよりもショックだったエピソードを。昨秋から年初めにかけて契約社員という立場で図書館員をしていたのですが、そこで会社の方に「名刺は作ってもらえるんですか?」と質問したところ、「その立場で名刺を作ってほしいと言われたのは初めてだ」と言われたこと。アルバイトではなく一応は契約社員だったので作ってもらえるのかな~、なんて甘かったですね。と言うより、他に俺と同じ立場で働いている人はいっぱいいるのに、その人たちは名刺が欲しくないの? と少し不思議な感じでした。そして、後日に同じ立場で働いているに名刺に話を振ってみたところ、「あー、使わないし要らないですよ~」という返事だったのは少しビックリしました。そういう人もいるのか、そういう人がほとんどなのかどっちなのかはわかりませんが。

そして、最後にもやもやしていることを自戒を込めて書きます。司書講習の最中に、たまたま一緒になった男子大学生の「図書館で働きたいなあ」という、呟きが妙に心に残っているのです。その原因は何だろうと考えるに、その男子大学生にとって「図書館で働く」ことがゴールになってしまっていたことなのではないかなと思います。「図書館で働きたい」という人は世にたくさんいるでしょう。でも「図書館で働く」ということ自体で言うなれば、今の時代はそんなに高いハードルではありません。時給900円くらいのアルバイトなら下手したら司書の資格などなくても働くことは可能です(実際に自分はそうでした)。そこでもう一歩、二歩と突き詰めて「図書館でどうやって、どんな風に働きたいのか?」という意識を持つのか、ということが問題になってくるように思います。「図書館で働く」ことをゴールに据えるのではなく、せめてどんなサービスを自身が提供したいのか、出来るのかを模索・実践していく必要があるかと考えています。

自分自身もまだまだ至らないところもありますが、その問題意識を忘れずにいきたいと思います。

またまた長くなってしまいましたね、ここまで読んでいただきありがとうございました。

ニキ・ド・サンファル展@国立新美術館に行ってきました

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またまた投稿に日にちが経ってしまいましたね、つじです。

今回は趣向を変えて昨日に行ってきたニキ・ド・サンファル展のことなど、気ままに書いてみようと思います。

いや、美術館とかホントに久々ですよ、3年くらい前に同じく国立新美術館で開催されていたシュルレアリスム展以来でしょうか。いろいろと仕事も趣味も図書館尽くしな感じだったので、たまには美術館の空気に触れてリフレッシュを図ろうというつもりでした。

哀しいかなアートに関してはたいした素養もなく、またボギャブラリーも乏しい自分ですが、まあ気軽なブログということでお許し、御笑覧いただけると幸いです。

ニキ・ド・サンファル(以下はニキと表記)、ポスターなど見ていた感じだと若い方だと思っていたのですが、もう故人なのですね。30代か40代くらいの前衛アートの方だと思っていたら1930年生まれとのこと。それにしては作風がポップだなあという感じですね。(ウィキペディアのニキ・ド・サンファルの項目はこちら→こちら

ニキの生涯に沿って作品が展示されていくのですが、初期の作品には銃やピストルといったモチーフが頻繁に登場します。オブジェなどの作品の中に、また映像でスクリーンに映されていた(おそらくインクか絵具が入った)銃弾を、壁のオブジェにライフルで撃ち込んでいくパフォーマンスなどなど。当時の時代背景や、ニキの心境などから「風穴を開ける」というモチーフを感じ取りました。

またその後には「ナナ」シリーズと呼ばれる作品群の展示があります。「ナナ」はフランス語で“娘”というような意味があるそう。それらに表現されてる物は、豊満な肉体を持ってはいても、どこかに傷や不安定なものを抱えていたりと、ポップでカラフルな色使いの中にもニキの問題意識を感じさせます。

晩年にニキはヒンドュー教などの精神世界に触れ、それらをモチーフとした作品も創り出します。その中でもひときわ存在感を示していたのは下の写真の「ブッダ」です(なお、この作品は指定された場所からなら撮影は許可されています)。

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そして、展示の最後には下の写真にある作品が迎えてくれます。

「観に来てくれてありがとう」というニキのメッセージを感じてしまうのはちょっと感傷的でしょうか(笑) この作品も撮影は許可されています、念のため。

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展示を観たあとに、「こんな作品をつくるのってどんな心境なんだろう?」というようなことを一緒に見に行った人に聞いてみました。と言うのも、自分は絵を描いたりするのが本当に苦手だったので、アーティストと呼ばれる人たちが作品をつくるときはどんな心境、心持ちなんだろうかとずっと気になっていたからです。

するとちょっと真剣な声音で、「無心でやってるんじゃないの。つくりたいからつくってるんじゃなくて、表現せずにはいられないのではないのかな。なにか抱えてる、吐き出したいものがあってそれを外に出すためにやってる」と言われました。そして、それは自分がこうやってブログを書いているのと構造的には似ている、っと。それがどういう形を取るかが違うだけなのではないか、と。

それを聞いて、ものすごく腑に落ちた感じが自分の中にありました。そうか、そうなんだなって。自分も無意識にというか、気が付いたらこんな風にブログ書いてるし。一応お断りしておくと、あくまでも構造的な類似であってレベルの問題ではありませんよ(笑)

良い時間をニキ・ド・サンファル展にて過ごすことが出来ました。美術館もたまには行くべきですね。本当に良い気分転換になります。

今後も無意識のアウトプットを様々なカタチで起こしていきたいなあと思う初秋の休日でした。頑張ろう。

【付記】ミュージアムショップと国立新美術館のアートライブラリーも素敵でした。ライブラリーショップとか展開すれば面白そうだし、需要はありそうなんだけどなあ。